小学生~高校生まで、サッカーを習っていた。
高校生くらいになると、戦術的なことを習うようになる。その一つに「スペースに走り込む」という基本的な戦術がある。それはこんな戦術だ。
味方のAが動くと、Aが居た場所にスペースができる。
そのできたスペースに味方Bが走り込む。Bが動くと、今度はBが居た場所にスペースができる。そこに味方Cが走り込み…。
ということの繰り返しなのだが、これによって、一人が1か所に居着かず、結果的に相手を翻弄することができ、得点に結びつきやすくなるのだ。
そのとき、一人がボールを長く持ちすぎないことも原則の一つとなる。
サッカーは一つのゴールのために、チームが一丸となって闘うスポーツだ。
個人技の披露や、どれだけ長くボールをキープできたか、などということは、大きな問題ではないし、競技の目的でもない。
◇ サッカーの競技上の目的は1つ。
ゴールを決めること 。
競技に臨む時、ゴールをしっかりと見据えて、監督の指示に耳を傾けなければならない。
☆私たちクリスチャンにとっての監督とは誰だろうか?
と考えてみた。
聖書によると、神なるイエスの霊である「聖霊」こそ、私たちの完全な指導者であり、監督。
イエスさまは、私たちの代わりに死んで、3日目によみがえった後、こう言い残して天国に戻られた。
「わたしは先に天国に戻って、きみたちのために家を備えてくるね。あとはヨロシク。でも、わたしはあなたたちから遠く離れるのではないよ。わたしの霊である『聖霊(Holy spirit)』を残していくからね。わたしは世の終りまで、きみたちと一緒にいるよ。そして、また戻って来るよ~」
◎私たちは、「聖霊」という監督の声をよく聞き、ゴールを目指すのだ。
☆…では私たちのゴールとはなんだろう?
名声を得ること?
人に評価されること?
尊敬されること?
お金持ちになること?
これらは確かに、一見魅力的なゴールかも♪…でも、どれも天国にはもっていけないものばかり…。死ぬときには、これらのものはすべてこの地上に置いていかねばならない。お金は天国にもっていけないし、容姿の美しさや健康、人からの評価も、天国ではゴミのようなものだ。トイレットペーパーほどの価値もない。
ならば、いったい私たちの目指すべきゴールって?
聖書に聞いてみよう。
聖書にはこう書いてある。
「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられた のです。
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださっ
た恵みの栄光が、ほめたたえられるため です」
(聖書エペソ人への手紙1:5、6より)
神の栄光がほめたたえられるために、生きる人生こそ、私たちのゴール、ということだろうか。
ゴールは「
神の栄光を現わすこと 」。
神の栄光を現わすって…、どういうことだろう?
聖書の続きの個所を読んでみよう。
「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり
(曲がった邪悪な世代の中にあって)傷のない神の子どもとなり
(いのちのことばをしっかり握り)彼らの間で世の光として輝くためです」
…私たちがこのような者となる時に、そこに神の栄光が豊かに現れるということだろうか。「オレさまの栄光」ではなく「神の栄光」を現わすために生きる人生。悪くないかも♪
もし、人生の目標(ゴール)が「自分の栄光」だったなら、毎日の生活は人々との争いとだまし合い、憎しみと嫉妬にまみれたものになるだろう。でも、もし人生の目標設定を「自分の栄光」→「神の栄光」に変えるなら、生き方は大きく変わってくると思う。
◎時には犠牲になる役割があったとして
サッカーでも、ゴールを決めるために、敵をひきつけ、味方に点をとってもらうこともある。しかし、それで「あいつが目立って悔しい」ということはない。なぜなら、私たちチームの目標は点を取ることにあるから。
考えてみれば、イエスさまご自身がそんな生き方の見本を見せてくれたっけ。
見方同士でいがみ合い、争っていたなら、喜ぶのは敵だけだ。
私たちは見方同士で、お互いに裁き合っている場合ではない。
☆私たちの敵は誰?
私たちは「神の栄光」という名のゴールを目指すために集められた、
「イエス・キリスト」チームの一員だ。
イエス・キリストの敵が、私たちの敵、ということになる。
イエス・キリストの敵とは「悪魔」とか「サタン」とか呼ばれてるあれだ。
私たちが戦う敵は、「憎たらしい、うちの女房」でも「どうしても赦せないクラスのあいつ」でも「あの能無し上司」でもない。
敵は、神でもないのに「私は神だ」と言って、自分が神になろうとする「悪魔」チームという憎きやつ、霊なる敵だ。人間じゃない。
私たちはすでに、「神(=イエス)」VS「悪魔(=サタン)」のたたかいのフィールドに立っている競技者なのだ。
「ぼくにはまだ、たたかいの準備が出来ていないから…」などとは言っていられない。きみは今、フィールドに立つ選手の1人としてポジション(役割)を与えられ、なくてはならない存在となっているのだから。必要とされているのだから。
しかも、聖書によると、「イエス・キリスト」チームは圧倒的勝利をおさめることが約束されていて、予告されている。「水戸黄門」みたいに、ピンチがあっても最後には必ず勝利しちゃう、という訳だ。
◎「な~んだ。もう勝利が約束されてるなら、がんばる必要ないじゃん」?? そうではない。私たちに期待されているのは、「大勝利」。「1点差で、なんとかぎりぎり勝った…」というのでなく、圧倒的な点数差による勝利が求められている。
どうしたら、圧倒的な勝利になるの?
私たちが、互いに裁き合うことをやめて、愛し合うとき、サポーターたち(天使たち)の大歓声と共に、ゴールのホイッスルの音が鳴り響くことだろう。
私たちが、競技場を単なる「自身の技術披露の場」、「自己満足、野心を満たす場」と考えるなら、このような犠牲は耐え難いことだろう。しかし、私たちには別のゴールがある。
神さま、どうか私たちが、生きる目的、ゴールを見失ってしまうことがありませんように†
◎先輩プレーヤーのパウロが、ベンチからこう叫んでいる声が聞こえるようだ。
「…そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、…恐れおののいて自分の救いを達成してください。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」
(聖書ピリピ人への手紙2:12)
私たちは自分の救いの達成に努め、つぶやかず、疑わずに愛し合い続け、私たちすべてを造られた神さまをほめたたえ続ける必要がある。
私たちの愛するイエスさまがそれを喜んでくださるのだから。
私たちのために、その命まで捨てて愛をあらわしてくださったイエスさまが、一緒にいてくださるのだから。
◎そして、共に喜ぼう。イエスさまの勝利を。私たちのゴールを。
♪賛美♪
もう 振り向かない もう振り向けない
イエスさまと 共に 歩む日々はもう 輝いている
いつもイエスさまに 愛されてるから
手を挙げて 私は あなたを ほめ歌う
主(イエス)の愛に こころは 満ちてる
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☆あなたも、「イエス」チームに入ってみたいと思いませんか?
「入ってみたい」という方は、簡単です。特別な能力や知識は必要ありません。
ただこう口に出して言ってみてください。
「イエスさま、私はあなたを、私の人生の主(主人)として信じます。私の心にお入りください。あなたのチームで、一緒に生きたいのです。これから、いつも私と一緒にいてください」。
今、このように口に出して言えた方、おめでとうございます♪
あなたはすでに、「イエス」チームのメンバーです。あなたの心にすでに、イエスさまが住んでくださいました。これからも続けて、イエスさまとお話してみてください。イエスさまとお話する方法は「祈り」です。お祈りの最後に「イエス・キリストのお名前によってお祈りします」と言ってみてくださいね。
※できるだけ、あなたの回りにいる誰かに、イエスさまを主と信じたことを話してみてください☆
そのとき、あなたは「イエス」チームの一員として輝かしいゴールに大きく貢献したことになるのですから。
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